はぁー、と重苦しいため息が、一人暮らしの小さな部屋に大きく響いた。
副課長の馬鹿野郎。死んでしまえ、そのまま高血圧で死んでしまえ!と心の中で悪態をつく。

「第二ボタンまであけたほうがいいんだろうか。」

家にあった少し高級なブランドのスーツを引っ張り出して、かれこれ30分、鏡の前で自分と睨み合っている。
これから、仕事とはいえ、ホストクラブへ行くのだ。いつもの貧相な格好で店に入るなんてマネはできない。
それに、今回はとても重要なおとり捜査。失敗すればただじゃすまない。それに被疑者は結構な指名を集めているホストだという。そんな彼に取り入るのは、簡単なことじゃないだろう。
うわっ、緊張してきた。
ちら、と時計を見ると、もうすぐ後輩が迎えに来る時間を、針が指している。
今までのもやもやを吐き出すように、ふー、と口から息を吐いて、もう一度鏡を見る。

「うぉし!!」

パン、と頬を両手でたたいて気合を入れる。
課長命令で、いくら不本意だとしても、引き受けた以上は私の仕事。
ヴヴヴヴヴヴヴ、とタイミングよく、携帯が机の上で振動する。手を伸ばしてそれをとると、パカと音を立てて開いた。
山崎という後輩からメールが一件。あ、もう外に着いたんだ。
今行く、と返信を打ってから、携帯を鞄に突っ込む。最後に忘れたものはないだろうかと、鞄をごぞごぞかき回して確認する。
あ。被疑者の写真忘れた。
机の上に一枚置いてある写真を手に取る。

「日本人、にしては珍しい毛色というか…。」

金髪に天然パーマ、歌舞伎町のNo.1ホスト、坂田金時。
女の子に向かって手を振って、にっこりと笑っている。紅いシャツに黒い背広がよく似合っているなぁと思う。
写真をぐしゃぐしゃにならないように、鞄の中に滑り込ませると、家の鍵を手にとって立ち上がる。
黒であれ白であれ、売人の疑惑がかけられているなんて、彼も大変なものだな、と人事のように思いながら、家を出た。









ねぇ、絶対無理ぜーったい無理。もう嫌だ。ちょっ、山崎くん女装して変わってよ!!と散々車の中で騒ぎ散らして困らせた後、お店より少しはなれた死角になる場所に車を止めて貰って、そこから店まで歩く。
歓楽街の通りに出る。もちろん、ホストクラブなんて生まれて一度も入ったことなんかない。むしろ歌舞伎町の歓楽街を歩くのだって、初めて。
『お姉さん綺麗だねぇ、ちょっとうちの店寄っていかない?』と数人のホストに声をかけられた。それに無言で苦笑いを返し、目的の店へと足を進める。
そして例のホストクラブの入り口で立ち止まった。地下…、にあるんだ。へー…。
そういえば呼び込みをかけてきたホストの兄ちゃんたちの近くにあったホストクラブの入り口もなんか下に続く階段があった気がしたなぁ、とぼんやり考える。
さぁ、ここまで来たんだ。もう後戻りなんかできない。したくない。
自分を落ち着かせるようにため息を1つついて、階段を下りた。
カツンカツンと、ヒールの音が、一段一段階段を下りるたびに響く。ヒールは履きなれていないので少し怖い。自然に足に力が入る。
すこし階段を下りたところで、正面にホストの写真がバーンと飾られていた。うわぁ…、なんだこれ。
そして今日、私が接触しなければならない金髪のふわふわ天パの男は、一番上に一番大きく飾られていた。
あー、そういえば山崎の報告で、ナンバーワンっていってたもんなぁ。

「いらっしゃいませ、お嬢様。」

階段の下のほうから男の人の声が聞こえる。ホストじゃなく、いわゆるボーイという人…、だっけ。たぶん、そういうホスト以外の仕事をする人から、声がかかった。

「初めて、なんですけど。」
「初回のお客様には、お試しコースとして3種類ご用意させていただいております。」
「それなら、一番高いコースをお願い、してもいい?」
「はい、かしこまりました。こちら、当店のホストとなっております。ご覧ください。」

いや、ついさっきそこで額縁に飾られた写真見てきたんですけど。差し出された本の中身を見て、そう思った。
プロフィールとか、どこまで真実なんだよ。知らんって。

「あのね、ボーイさん。実は知り合いに進められて来たの。
 名詞を知り合いから預かってきたから、その人を指名してもらってもいーい?」

この人、と名詞をボーイに差し出す。先日、逮捕した女性から証拠品として預かったものの1つだ。彼女が、いっこうに口を開いてくれないから、こうして私が潜入するんだけど。
ったく、めんどくさいよ。ちくしょう。猫かぶるのだってね、本当は鳥肌立つくらい嫌いなんだからね。土方の馬鹿野郎。へんな作戦立てやがって。マヨの摂取しすぎて高血圧で今すぐ死ね。死んでしまえ!!

「あ…、はい。ではご案内します。」

そういえば、身分証の確認されていないなぁ、と頭の中でぼんやり。確か風俗法で定められてるんじゃなかったっけな。
暗めのライトの店内を歩きながら、なるべく首を動かさないようにして店内を監察して案内された席に座る。
ってか、ホストクラブってこんな内装なんだ。無駄に豪華!うざっ!

「それでは、お楽しみください。」
「初めまして、ユウジっていいます。」

ヘルプでっす。とピースしながらボーイのお兄さんと入れ違いにホストが来て、少しはなれたところに座った。ああ、あれですか。本指名のホストが来るまでの時間稼ぎって奴ですか。
副課長、もうなんか店のテーブルちゃぶ台返しして帰りたい気分なんだけど。

「……、です。よろしくね。」
さん?ちゃん?」
、でいいよ。」

ちゃん付けとか、鳥肌立つから。笑顔をたやさないように。余裕の笑みを崩さないように。
無茶だよ、土方―。

「じゃあ、さんって読んでもいい?」
「あはは、いいよ、別に。」

ちょっと困った顔のユウジ?くん。なんだか可愛くてこっちも苦笑いを浮かべる。
なるほど、このホストはそういうのがうりなんだろうか。難しいな、この業界。

さんは、初めてのお客様なんだよね?」
「そうだよ。だからホストクラブってまだよく分らないんだ。」
「そうなんだ。じゃあ俺が教えてあげるよ。」

いやいや別に。今回だけだと思うのでいいですよ。なんて言える筈もなく。とりあえず笑顔だけ顔に貼り付けておく。
なんて答えようか一瞬考えた。その瞬間に、す、とテーブルに影がさして、そっちに視線をずらす。

紅い視線と、自分の視線が、交わった。



ああ、ホント日本人にしては珍しいっていうか。こんな珍種を、金持ちのおばさんたちが野放しにしておくわけがない。
視線が交じり合っただけなのに、なぜか時間がスローモーションに感じた。
ゆっくり、紅い瞳が驚いたように一瞬見開いて、すぐに元に戻る。一瞬の出来事だったのに、ゆっくり、なぜかゆっくりに感じた。

「キントキです。ご指名ありがとうございまーす。」

視線が細くなって、苦笑いをひとつ浮かべられる。
やべっ、ついつい職上柄が出てしまう。あー、きっと今私の視線、鋭かったんだろうな。やばいやばい、土方にはなりたくない。
背筋に冷たいものを感じながら、ごめんね、っていう意味を含めて、苦笑いを返す。

「ごめんね、いきなり指名なんてして。」
「へー、そういうの気にするタイプなんだ?」
「わりとね。っていいます。よろしく。」
「うん、よろしく。お酒、貰ってもいい?」
「どうぞ?」

ヘラ、と笑う。え、それってホストが浮かべる笑みとは違くね?あれ?
当たり前のように会話をしながら、人の隣に座るこのホスト。
コト、と極力小さな音を立てて、ユウジくん?だっけ、ヘルプのホストが水割りを出してくれる。ありがとう、ってお礼とともに笑みを返したら笑みが返ってきた。

「ねぇ、さんは、俺のこと、どんな子から聞いてきたの?」
「気になるの?」
「そりゃあ、俺ってどんな評判なのかなーって。」

近い近い近い。以上に顔の距離が近い。え、ってかこれが普通なのか。20センチくらいの距離なんですけど。
ニコニコ笑ってる、つもりなんだろうけど、なんか目が笑ってない、気がする。

「そうだなぁ、“珍しいものをくれる”って聞いたな。」
「……珍しいもの?」
「そう。珍しいもの。」

目線が細くなった。副課長、これは黒っていうサインかもしれない。
慎重に、慎重に。と、身構えた。
のに、
一瞬、なぜか、視線が悲しそうな苦しそうな色を帯びて、消えた。



やばっ、一瞬ドキっとした。



金髪ホストは、困ったように手を頭の後ろに持っていき、首筋をなでる。
それが何を意味するのか、いまいち分らなくて理解に苦しんだ。

「それは、どーいう意味?」
「さぁ、私にもいまいち理解できなかったんだけど。」
「なら、俺にもわからないって。」

そうだよね、と肩をすくめて苦笑いを送る。
そうだよねー、自分で言ってて意味不明だったもん。

「それは残念。私は私なりに考えてきたのに。」
「なに?教えてよ。」

いや、口からでまかせなんですけどね。もうヤダ。猫かぶんのヤダ。誰だ、こんなキャラのほうが男に取り入れやすいとか言ったのは。あ、総悟じゃん。
あー、話を反らそう。そう思って、さっきのヘルプの男の子。えーと、ユウ…ジくん?だっけか、に目線を向ける。
なぜかごめんねポーズをしていた。あれー?

「指名はいっちゃった。」
「いってらっしゃい。」

バイバイって、手を振っていなくなるユウ…なんとか、くん。
なんだよ、ナンバーワンのほうが指名くるだろー、なんでいなくなっちゃうのおおおおおっ!!と理不尽なことを一瞬考える。

「それで?教えてくれないの?」
「…っ……。」

耳元で囁かれて、背筋がぞくっとした。
あああああああ!!もう!!!適当にはぐらかしとけえええええ!!!



「…………無責任に、綺麗だとか可愛いだとか連発しないとか。
 ほら、ホストの言うことはいちいち本気にしていられないかもしれないけど、
 ちゃんとお客さん一人一人のいいところを見つけて、言葉にしてくれてるのかなって。」



嘘じゃボケええええ! いや、全部が全部嘘ってわけじゃないけど!でも!
なんで、なんでもっとマシなこといえないの私!
アホだああああああ!と心の中で格闘しながら、チラっと金髪ホストの表情を拝見する。

「え。」

目を見開いて、なんかフリーズしていた。
思わずもらした疑問の声に、我に返ったらしく、ごめんごめんと片手を立てて誤られる。
そんなに変なこと、言ったんだろうか、私。はっず……。

「ホストの言うこと、いちいち本気になんてしちゃダメなんじゃないの?」
「あれ?ホストがそんなこと言ってもいいの?」
「なんか別に、さんなら、いいや。」
「なーに、それ。」
「だってさぁ、そんなこと言うのって反則なんだって本当。」
「なんで?」

何が反則なんですか。え、っていうか口説く気ないよね。私一応お客なんだけど。
だぁーというため息交じりの奇声とともに、項垂れる目の前のホスト。
態度一変。

「俺口説く側なのに、口説かれてるね。コレ。」
「口説いてないよ。」
「俺よりさんのほうがホスト向いてるんじゃねー?コレ。」
「なんでいきなり…。」
「ねぇ。」

パシっ、と腕を掴まれて、仕方から顔を覗かれる。
さっきと打って変わって真剣で、欲望を孕んだ、その瞳に心臓が跳ねた。今度は私が目を見開く番だ。

「…っ、な、なに?」
「俺がアフター、頼んでもいい?」



………は?



不安の色が少し灯って揺れる紅い瞳と、理解できずに固まる私。
ちょっと待ってよ。私はいま潜入操作でここに居るわけで、ホストに口説かれたいわけじゃなくって、ってかむしろそんなん虫唾が走るくらい嫌いなんですけども、アフターってあれだよね、お店終わった後にどっかにいってアッハンウッフン的なあれだよね。いやいやいやいやいや無理無理無理無理。いやでもちょっとまてよ、アフター誘われたってことはブツの売買ってことかもしれないし、どっちみち副課長の馬鹿土方からはアフター誘って薬持ってるか確かめろってことだったし、コレって好都合なわけですよね。いやでもアッハンウッフンは無理。無理無理無理無理、この年まで男性経験なんて皆無ですから、ねぇ?無理無理無理無理。
でもここで断ったらきっと半年かけて調べたことがパーになってしまう。
それだけは、避けたい。

きっとこれは、そういう営業の仕方なんだ。本気で言ってるわけじゃないんだ。そうだ。
覚悟、決めろ、私。

「い、いよ。」
「マジでか!?」
「え、あ、うん。」

さっきの登場したときとは本当に態度が違う。違いすぎてなんか笑えてきたけど耐える。
これもホストとしての営業の1つなんだ、すげぇなホスト。

「キントキさん。」
「あ?」

声がしたほうを見てみると、ボーイのお兄さんが立っていた。
不機嫌そうにボーイのお兄さんをみる目の前のホスト。確かに盛り上がってるところ邪魔されたらぶーたれるよなぁ、誰だって。

「5番テーブルご指名です。」
「あー…、わーった。」

シッシ、とまるで犬猫を追い払うようにボーイのお兄さんに手を振る金髪。をいコラ。
それを合図にしたように、一礼をして去っていくボーイのお兄さん。
さっきと一転、死んだ魚みたいな濁った目でため息をつく目の前の金髪。なんか“あー”って聞こえる。

「なぁ、今日ってこの後なんかやることある?」
「何も?」
「ならさ、



 裏口で待っててくんない?すぐ行くから。

 <no title> 0.5 →